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JP EN Timeline Research Coexistence Data Facts & Photos navigation#toggleMenu"> Timeline Research Coexistence Data Facts & Photos Top coexistence 医療の力で被災地を救う coexistence 復興と共存の10年 Article 医療の力で被災地を救う 2021.03.11 SHARE 津波が襲った陸前高田で、地域医療を守るために 津波による甚大な被害が及んだ岩手県陸前高田市。医師であり、早稲田大学の卒業生である石木幹人さんは、県立高田病院の院長として、被災後の地域医療を長年支えてきた。10年の時が経った今、石木さんは「病院の屋上から津波で流された街を眺め、医療を再建させなければならないと感じた」と3月11日を振り返る。2011年、被災地の医療はどのような状況に陥り、再生していったのか。 Profile 石木 幹人 医師・元岩手県立高田病院院長 1947年青森県生まれ。1971年早稲田大学理工学部卒業。1979年、東北大学医学部卒業。岩手県立中央病院呼吸器外科長兼臨床研修科長を経て、2004年、岩手県立高田病院院長に就任。2014年に岩手県医療局を退職後も陸前高田市に残り、地域医療の復興に携わっている。 高齢者に優しい地域の病院を目指す 2000年代初頭、高齢化と医師不足という地域医療の課題が、岩手県陸前高田市で顕在化していた。その背景には、「医師の専門分野の細分化」があったと、石木さんは説く。 「1970年代頃まで、各地域の総合病院では、医師たちは自分の専門を超えて診察をしていました。手術であれば、心臓も肺も消化器も、同じチームが担当していたというわけです。ところが私が医師になった80年代頃から、内科が消化器内科、呼吸器内科に分かれるように、専門の細分化が進みました。人口の多い地域であれば問題はないのですが、医療ニーズが少ない地域では、専門医を一人一人集めていては病院経営ができません。この問題は、現在日本中の地域が抱える問題だといえます」 石木さんが総合病院である県立高田病院にやってきたのは、2004年。「高齢者に優しい病院」を掲げ、院長として病院の再建に努めてきた。介護職との連携やスタッフの勉強会を通じ、少ない医師数でも地域の医療ニーズに応える体制を整備。石木さん自身も、かつてのように専門外の診察を行った。また、訪問診療を強化するなど、置き去りにされた高齢者向け医療を改善していった。その結果、高田病院は活気づき、2010年度は黒字経営を実現した。 しかし3月11日、巨大地震が陸前高田を襲う。 津波に飲み込まれる高田病院 地震発生直前、石木さんはいつものように、病院の4階で診療を行っていた。突如激しい揺れを感じた石木さんは、職員を3階以上に避難させ、情報の収集に努めた。30分後、窓の向こうに、病院に押し寄せる巨大津波を見る。1〜2階が飲み込まれたのは、あっという間の出来事だったという。 「屋上に避難し、陸前高田の街を見渡した時、他のクリニックや薬局も流されているのが分かったんです。病床は不足し、医療は完全に崩壊すると感じました。そして同時に、病院の再建を強く決意しました」 屋上に上がれなかった重症の患者や、1階を見回っていた事務局長は行方不明となった。そして屋上で、石木さんは自宅も津波被害に遭ったことを確認することになる。 「自宅にいた妻とは連絡が取れませんでした。なんとか生きていて欲しいという一縷の希望を抱きながら、自分のすべきことに専念していたのだと思います。最終的に、再会することはできませんでした」 一般診療の復旧が急務だった 3月14日、石木さんは被災した市内を見回った。生き残った住民の中には、薬を持たずに避難したなど、医療を必要としている人が多数いた。いち早く一般診療を復旧させることが必要だと感じた石木さんは、以後休むことなく対応にあたる。 「高田病院の医師・看護スタッフは多くが生存したので、人手はありました。しかし、患者さんの交通手段がない。病院にスタッフがいても、患者さんは来ることができないのです。そこで、市内に残された建築物を6箇所緊急の救護所とし、人員を分散させる判断をしました。隣接する岩手県大船渡市の病院には救急センターの機能が残っていたため、緊急の場合は搬送することもできました」 地震発生から10日ほど経つと、全国から医療支援チームが陸前高田に集まり、診療をサポートした。 「支援チームのおかげで、全ての救護所に医療チームを配置することができました。不休で働いていた高田病院のスタッフにも休暇を与えることができました。ここでようやく、自分たちの家財の整理などができました」 石木さんは定期的に各救護所のスタッフと打ち合わせをし、課題を共有した。薬局とも連携し、薬剤の調達にも奔走する傍ら、訪問診療も行った。こうして徐々に地域医療は再建。7月には仮設の外来棟が設置され、救護所は閉鎖された。そして2012年2月、高田病院は仮設病院を建設した。 早稲田大学からのボランティア支援 震災発生からしばらくした頃、石木さんの早稲田大学時代の同級生が、寝袋を持ってボランティアで陸前高田を訪れた。同級生とは被災地の状況や問題について語り合った。 「同級生の活動がきっかけで、早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンター(WAVOC)からの支援が決まりました。瓦礫の撤去に始まり、混声合唱団やマンドリン楽部など文化系サークルや、卓球部、野球部、サッカー部など体育各部が訪れ、避難所になった学校で演奏会やスポーツ支援をしてくれました。地域住民の心の傷も癒えていない頃だったので、とてもありがたかったです」 医師の道に進む前、理工学部で電子工学を学んでいた石木さんは、「工学で得た思考力が、その後の仕事に役立った」と、学生時代を振り返る。 「同期の友人やWAVOCとのつながりは今も密接です。仲間をつくり、協力しながらあらゆることを乗り越える力は、早稲田大学時代に培ったのだと思います。陸前高田市のボランティアを受け入れる部署に、早稲田の卒業生が勤務していて、意気投合したこともあるんですよ」 超高齢化社会における地域医療の課題 震災から10年、石木さんは地域医療に何を感じているのだろうか。 「「高齢化する地域に対し、絶えることのない医療を届けることが、陸前高田に来た時の課題だったわけですが、恐れていたことが現実になったのが東日本大震災でした。寝たきりや一人暮らしの高齢者が孤立し、助からない命もありました。震災以後も高齢化はますます進み、若い医療・介護スタッフも不足してきています」 現在、陸前高田市の高齢化率は38%を超えている。地区によっては45%に達している場所もある。こうした中、石木さんは、院長を引退した今も、高齢者への啓蒙活動などを続けている。 「今後、医師や病院が増えることはないでしょうから、治療だけでなく、予防も大事になっていきます。そうした意識を高めてもらうために、地道に講演会をしています。住民による自立した地域社会が理想ですが、まだまだ危機意識は足りないといえるでしょう。新型コロナウイルスの蔓延により、孤立する高齢者はますます増えています。次なる災害がいつ襲ってきても不思議ではありません。地域の強化は急がなければならないのです」 今後、石木さんは、どのように陸前高田の街と向き合っていくのだろうか。 「40年後には、日本全体が現在の陸前高田のような高齢化率38%を超える超高齢社会を迎えると予測されています。その時に、地域医療の新しいモデルが構築されていなければなりません。陸前高田を、高齢者が安心して生きられる街にできれば、日本の未来の指針になるはず。私も、あとどれだけ活動できるかわかりませんが、全力は尽くすつもりです」 SHARE --> --> 教育、研究、貢献、復興。 それぞれの場面に 多くの出会いがありました。 時代が移り変わっても 早稲田大学は 集まり散じて成長する場を創出していきます。 © 2021 Waseda University. All rights Reserved. Credits

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